高度な修行法とは、滝に打たれることでも真冬の水に入ることでもない。
神の御前に出られる自分になるよう、高貴な霊魂方に来ていただき、行う修行法である。
それは契山館にしかない。
高貴な霊魂方が関わらない修行法は弊害しかない。
幽体が進歩しないばかりか、低い霊魂に寄られるのではやらない方がましだからと言える。
だけど、多くの人は興味がない。
この世のご利益、願望達成を謳わない契山館は人気がない。
仙台に行った時、某団体などの立派な建物がいくつもあった。
そして、人が大勢歩いていた。
こんなにも人間がいるのに、見向きもされない気分になった。
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